府中市 不動産売買 「祖父の残した遺言」第2話
注意・・・・・祖父の半生涯記は、明治時代の文語文で書かれており、それを私が現代文に訳しているので多少伝わりにくい文章があるかも知れません。
お気づきの点につきましては、教えて下さると嬉しいです。
どうか宜しくお願い致します。
仙台市定禅寺通櫓町四十一番地に生まれた。
父は彦右衛門と言い、その長男である。
6歳頃迄上記場所に住んで居たが、その頃は父母とも健在で自分は非常に幸福に養育を受けて居た。
その時、当家に陸軍騎兵中尉加藤其が下宿して居たが、その馬丁に度々背負われて歩いた事を記憶する。
両親からは何時も沢山の種々な玩具を買い与えられそれを竹行李二個に入れていた。
夜はよく父に抱かれて小便をしたことを覚えている。
父は営業の為何時も帰りが遅かったが、朝目覚めると枕元には何時も菓子器が置いてあってその中には二~三種の美味しい御菓子がいれられてあった。
そうして非常に楽しい朝夕を過ごした。
六才頃二日町に移転した。
その後一年後位で柳町に移転したが間もなく日露戦争となり、勇ましい出征や凱旋の有様を見た記憶がある。
当時当家では料理店を経営して女中も五六人居たが戦争景気で大いに繁昌した。
八才の時片平町小学校に入学した。
父はその頃から病気となり永く寝込んで居たが、私が9才の夏七月一五日遂に永眠した。
その後は母一人の手で営業していたがとうとう運営が困難となり、私と妹二人の養育にも苦しむ状態となった。
従って借財も増加し差押えなどにも逢い、そこを立退かなければならなくなったので、止むを得ず同じ柳町の別の家へ移転した。
再三営業の再興を計ったが生活費に追われまたまた漸次借財を重ねて食うや食わずに生活が一年続いた。
そこも立退きを迫られて今の大学病院構内となって居る、旧桜小路に移った。
その頃は家財は殆ど無く貧困のドン底にあったが、その時瀬戸物(鍋)を二個質屋に持参し1銭5厘を借り受けてその帰りに薩摩芋を買い親子4人で夕食を済ました事も有る。
こうして鍋釜を失ったので漬物用の小瓶で飯を炊くこと考案してそれを続たが、ご飯が出来るまでに2時間余りを費やすので私の学校に行く時間が間に会わずごはん抜きで登校することが毎日続いた。
そこで私はこの生活苦を見るに忍びず、断然他家へ奉公に出ることを決意した。
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