東京都府中市 ゴミ分別厳しい 不動産売買 「叔母を預かって分かった事」⑰
こんにちは&こんばんは!
お爺ちゃんの名前は金光。
お祖母ちゃんの名前はアイ。
曾祖父の名前は甚太郎.
曾祖父は壱岐市勝本町の宮大工。
とても腕が良かったそうだ。
お祖母ちゃんはお爺ちゃんに見初められて瀬戸から勝本町北触に嫁いできた。
お祖母ちゃんは教師の家系。
「父は東京工業大学を出て小倉工商に勤め、その後技術を指導する立場で家族を連れて満州に渡ったの。まだ勝利(私の父)は産まれていなかったよ。私は満州で生まれたの」
博多弁というか、博多のお嫁さんもそんなに理解出来ない訛りでの説明だから半分くらいしか理解出来ないのだが、
「え?」
と聞き返した。
当時長崎県壱岐島の田舎からその時代にどうやって東京の大学、しかも東京工業大学に来れたというのか。
今だって大変だろう・・・・・
「叔父(父の兄弟)が東京の検察庁に勤めていて東京に住んで居たから。そこに居候させて貰って通ったの。父はかなり優秀だったのよ」
「そうなんだ。それなら話は分かる」
亡くなった父は生まれ育った環境のせいで県立高校しか出られなかった。
頭のとても良い人だった。
法律が大好きで、私が小学生の頃東京大学に労働法を学びに行っていた。
「お父さんは、大学は出ていないけれど弁護士よりも労働法だけは負けないよ」
と良く言っていた。
父は祖父の叔父さんの血を引いていたのか・・・・と思った。
幼少の頃虐待されて育ったからか、負けず嫌いで弱い人を自分のこと以上に夢中で守った。
そのせいで家の事が疎かになり更に母と対立することになってしまった。
本当は大学に行きたかったに違いない。
仕事しながら早朝3時に起きて毎日勉強していた。
私にも、
「中央大学の法学部に行きなさい」
と自分の果たせなかった夢を託したが残念ながら期待に応えられなかった。
叔母も大変だっただろう。
福岡に渡り、仕事を探した。
当時(昭和初期)女性の仕事はそんなに無かっただろう。
「結局私は料亭を経営したの。板前3人と女給8人を雇っていたの。その時今の家を買ったのよ」
凄い・・・・・・
私の母方も皆経営者だが、父方もそうだったとは。
「教育者や学者の家系だったけど、私だけ料亭を経営してたのよ」
どうりで91歳にしては数字に強かった。
電話番号も全部暗記していた。
計算が異常に早い。
話し方は理路整然としていて知的。
人の悪口や嫌味、傷つくような物言いは一切無い。
叔母をとても誇りに感じた。
生き字引だからこれからも沢山父方の話を聞きたい。
叔母が居なくなってしまったらもう誰にも聞くことは出来ない。
叔母の長生きに感謝した。
見ると残り1時間を切っていた。
叔母の歩く速度を考えると急がなければならなかった。
「そろそろ行きましょう」とラウンジを後にした。
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